24.家庭での躾問題。どこまでが躾で、どこから親のエゴなのか…。
「しつけとは、人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞いができるように、大人が子どもに対して訓練すること。」とある。
この、しつけに関する夫婦の認識の差により、しばしば問題が生じる…。
幼少期は、「やっていいこと。」「やっちゃダメなこと。」など単純なしつけが主であった。
私も、押入れに放り込まれたり、外に放り出されたり
よく、泣いて母親に謝ったものだ…
こう考えると、
私の家庭では、起こった事象に対して、母親は暴力的に私を教育していたのかもしれない。
まぁ、横柄な私には、
諭すやり方では、通用しなかったであろう…
しかし、
最近では、それを見た近所の人は、警察に通報するかもしれない…?
幼少期は、子どもに接する時間が長い母親が、率先してそれを行うことになるだろう…。
しかし、それは
子どもの成長に伴い、複雑さを増していく。
問題は、「しつけをすること」は、自由に伸び伸び育てることの対極にあるからだ。
つまり、
しつけを厳しくした方がいいと考える親と、伸び伸び自由に育てたい親との、間で育て方に差が生じる。
そもそも、
子どもが社会に出て、苦労しないようにすることが我々、親の目的であることに変わりはない。
あるいは将来子どもが、社会を構成する一員となるように、社会から子どもを預かっているという考えもあるだろう…。いずれにせよ、
夫婦が互いに、協力しあい子どもを育て(しつけを含め)なければいけないことは明確である。
しかし、個々の
躾に対する考え方は千差万別で、主に、
育った環境や、色々な資料から得る知識、さらには、他者からのアドバイスにより、それは構築される。そのため、
しつけに対する思想は、個人個人で別々の文化となる。
基本的な食事のマナーについても互いに意識が違うし、片付けや、時間管理についても夫婦間で認識の違いが生じる。
ハウツー本を読めば統一することができるだろうか…??
しかし、文化を構築するマニュアルというのは時代によって変化するだろうし、正解があってないようなものだと思う…?
躾は、簡単なものから並べて、
「食事の際の姿勢。」とか、
「自分の使用したものは自分で片付ける。」とか、「起床や寝る時間、学習の時間などの規則正しい生活をする。」
などがある。
基本的なことは、夫婦間で共通認識を持つことが可能だろう…
しかし、
それを、どの年齢から言うのか?
優しく指導するのか?あるいは、厳しく指導するのか?男親の役割であったり、母親の役割であったり
非常に複雑で難しい…。
個人が子どもの振る舞いから受ける感情にも、(違和感?、不快感?印象?など)差があるだろう…。
夫婦は、明るい子どもの未来を望むことは同じである。しかし、そこに至るプロセスが異なる。
上述の単純な例えでさえ、なかなかうまくいかない。
注意の回数が増えれば、高圧的にもなるだろうし、
場合によっては、本来のしつけと乖離し、暴力的になることもあるだろう…。
たった今起きた事例だ…
母親がヒステリックに大学生の娘を叩き起こす…
私は何も言わないが、心の中では大人なんだから自己管理は、責任もって個人が行うべきだと思っている…。
以前の私なら、「ほっといたら。」と言ってただろう。すると嫁は、「私を睨み付けるだろう…」
なので今は、なにも言わない…
ここで、過去の私の反省すべき点は、
夫婦で育て方に違いはあれど、「統一感を持って子どもを教育する。」ことができたか?
である…
私の考えるしつけは、
片方の親が子どもを注意すれば、もう片方は、優しくその意味を説くなど、方個性を統一してやりたかった。
それが、子どもの文化になり、その文化は、違う文化と交わることで、新たな文化に発展したらいいと思っていた。
しかし私達夫婦の場合、双方気が強く
夫婦が互いに文化の違いを認め合わず、仲違いした状態で、子育てをした…。おそらく、子どもは困惑しただろうし、この家族で生活していることを幸せに感じただろうか??
特に、我が家は単身赴任家庭ということで、方個性の統一が難しかった……
例えば、子どもの箸の持ち方にしても、私が赴任先から戻ったときはちゃんとできる。しかし、次に帰ったときには、またおかしな持ち方をしている。
嫁は、私の前では注意してたが
普段の生活では注意しないのだろう。。
「厳しくしつけしたい私。」「いつか出来ると思う嫁。」
それを、私が意固地に厳しくしたとき夫婦喧嘩が始まってしまう…。
この乖離をどう埋めていけば、統一性を持って子どもを育てることって可能なのか?
よその家庭は、どのように教育しているのだろう?
悩みは、解決しないまま子どもは来年成人式を迎える…。